宣教題 御心のままに
マルコによる福音書14章32-42節
この場面では、弱さをさらけ出す人間イエスの姿が浮き彫りにされています。主イエスは迫りくる苦難の回避を祈ります。神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出していった人とは別人のように見えます。そこは、ゲッセマネというオリーブ山の中にあり、エルサレムに入城してからの一行の日々の祈りの場所でした。あの時には、主イエスの苦しみと痛みに弟子たちは共感することができず、目を覚ましていることもできなかったのでした。だからこそ月明かりの下での主イエスの恐れもだえながらの祈りの姿を、語り伝えていったのでした。
主イエスはひどく恐れもだえ「死ぬばかりに悲しい」と弟子たちが近くにいることを求めます。すでに祭司長や長老たちが、自分の命をねらっていることは承知していたでしょう。しかし、その迫りくる苦しみの出来事の先を人間イエスは知ることが赦されていないのです。だからこその恐れであり、神の応答が感じられない状況でもあったことが考えられます。
私たちの住むこの国では「死」を持って終わりにする文化を持ち、勇ましく散る姿が美化される傾向が根強く残っています。その観点からは、この場面は実に泥くさくみじめな姿と見えます。しかし、この主イエスの苦しみもだえて祈る姿こそが、私たちが弱さや恐怖に負けてしまいそうな中で、それぞれの苦しみを知ってくださる救い主としての希望となるのです。
主イエスは「アッパ父よ。あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし私の願うことではなく、御心のままに」と祈ります。ここで重要なのは、主イエスが神からの応答が途絶え、愛する弟子たちにも共感してもらえない状況でもなお、神の御心に信頼し、自分の身を委ねられたことです。主イエスは「死」の先を思うのではなく、共にいると約束される神に徹底的に信頼したのです。それゆえに「御心のままに」という言葉が私たちに手渡されたのです。