礼拝

マルコによる福音書 15章33-39節 『十字架の上で』 武林真智子 牧師

宣教題 十字架の上で

マルコによる福音書 15章33-39節

 主イエスは、群衆に捕らえられてから、最高法院の裁判の場でも、総督ピラトの尋問の場でも、抵抗せずに沈黙を守られました。そこには、弱く小さくされた主イエスの姿があるだけでした。一方、ローマ帝国の力の下にいる兵士たちにとって「ユダヤ人の王」は、嘲りと侮辱の対象でした。もて遊ぶように唾を吐きかけ、ひざまずいて拝むのでした。

主イエスの十字架の下を通りかかった人々も、罵りながら「十字架から降りて自分を救って見ろ」と言い、同じように祭司長たちや律法学者たちも侮辱して「他人は救ったのに、自分は救えない。十字架から降りるがいい」と言うのでした。一緒に十字架につけられた者たちまでも、罵るのでした。

様々な人々が注目する中で、全地が暗くなり、三時に、主イエスは大声で叫ばれたのでした。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味であると、聖書は記します。そこには、愛する弟子たちの姿はなく、神からの積極的な介入もありません。それでもなお、神に徹底的に信頼し、従って行かれた主イエスの最後の言葉なのです。神の御子の最後は、理不尽で、悲しく惨めな姿です。どこにも栄光の形を見ることができません。

私たちは、自分が理不尽なことに直面したり、目にすると、その状況からの解決を神に願います。それは、自分たちの理解と認識を満足してくれる神を求めているだけなのかもしれません。しかし、主イエスは、自分自身の死を予感した時より、神を求め、神に問いかけ、大声をあげて息を引き取られたのです。

しかし、この主イエスのむごたらしい十字架刑を、最初から最後まで、責任者としてむかい合った百人隊長からは、「この方はまことの神の子であった。」と、信仰告白が発せられます。私たちの信仰告白も、強さではなく、弱さの中でも絶望せずに祈る主イエスに注目する証人でありたいと思うのです。

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