礼拝

ヨシュア記20章1-9節 『主が設けられた場所』 牧師 武林真智子

 聖書には、最初から神との約束を破る人間や、妬みによって兄弟を殺す人間を描かれています。そこには著者たちの罪による深い痛みと悔い改めを受け取ることができます。当時の法律は「目には目を、歯には歯を」と言われ、その罪と同じ罰によって帳消しにされる仕組みがあったようです。しかし、それは暴力の連鎖を引き起こし、いまだに治められない憤りや怒りが国家間レベルで続いているように思えます。
 それぞれの民族が約束の地を相続したとき、主なる神は「逃れの町」を準備されました。その町は、どこの町からも一日で逃げ込める場所、またその殆どが山地に作られたと言います。そこは、過って人を打ち、殺してしまった者が逃げ込むための場所でした。血の復讐をする者から、逃げるための場所となったのでした。司法の仕組みのない時代、命を奪う者は必ず命で償うこと(レビ記24:17)が求められていました。
 この「逃れの町」の存在は、様々な箇所に記されていて、丁寧に辿ると、イスラエル民族だけでなく寄留者にもその場所が開かれていたことが分かります。また一定の期間を過ぎると共同体への帰還も配慮されていたことが分かります。
 この国では、罪を贖う方法として、法による死刑が実施されています。すなわち命を奪う者は必ず命で償うことが求められていると言えるでしょう。そこには人が人を裁くという仕組みがあり、残念ながらその判断の正しさは究めることができません。使徒パウロは、愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せない(ローマ12:19)と、すべての人と平和に過ごす道を示したことを思い起こしていきたいのです。

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