礼拝

アモス書8章11-12節 『その日が来る』 牧師 武林真智子  

11月に教会学校で展開されるアモス書は、北イスラエルの民にむかっての極めて厳しい言葉が続きます。なぜなら王の統治のもと、富と繁栄を手に入れたイスラエルは、創造主なる神を忘れて、偶像礼拝にひれ伏していたからです。正しい者、貧しい者を奴隷として売り、弱い者や抑圧された人々を踏みつけるような政治が横行していたのでした。

預言者アモスは、南ユダの羊飼いで、いちじく桑を栽培する者であると言い、預言者ではないといいます。しかしその自分に、主は「行って、わが民イスラエルに預言せよ」と命じられたと語ります。アモスにとって「その日」すなわち、主が臨まれる裁きの日が、真近に迫っている緊張感によって、語らなくていられない衝動に突き動かされていたようにも思えます。

わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ(8:11

私たちは、失ってみて本当に、それがかけがえのないものであったことに気付くのです。創造主なる神は、私たちを神に似せて造られたと聖書は記します。すなわち神と同じように、人が痛んだり、苦しんだりすることに共感できる存在として造られているのです。しかし、イスラエルの民がそうであったように悪の誘惑によって、自分の生活に痛みや苦しみが過ぎ去ってしまうと、主の言葉の重要性を忘れてしまいます。

この混沌とした現代社会で、教会が預言者として生きるなら、なによりも「主の言葉」の価値を共有し、他者の痛みや苦しみに敏感でいたいと思います。創造主なる神は言葉によって天地万物を創造され、ひとりも滅びることがないように主イエス・キリストをこの世に贈ってくださったのですから。

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