命の誕生を喜び、子どもの成長を見守るのは、どんな国、どんな場所であっても嬉しいことです。主イエスがことのほか子どもが大好きであったことを聖書は語ります。本日の聖書箇所は共感福音書といわれるマタイ、マルコ、ルカの全ての福音書に記されています。そしてどの福音書もその次のフレーズが金持ちの青年となっていることも注目すべきことでしょう。
ここでの子どもは乳飲み子といわれるほどに小さな子どもが描かれています。すなわち自分の力では決して外にも出ることができないのです。当時は、強い家父長制度の中にありましたから、乳飲み子は女と同様に生産能力がなく、数にも入れてもらえない存在でした。しかし、今と同様に親にとって、与えられた命を喜び、成長を願うことは変わりなく、偉い人、高名な人に触れてもらって祝福を得ることを望んでいくのも当然であったと思えます。
主イエスの評判は口コミで広がっていました。死んでしまった子どもが生き返ったとか、異邦人の子どもでも悪霊を追い出してもらえたとか、幼子の死亡率の高い時代、なんとかして先生に触ってもらって力にあやかりたいと願ったことでしょう。ところが弟子たちは、主イエスに近づいてきた一行にむかって叱ったのです。これを見て主イエスは激しく憤り、言われます。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである(10:14)」
子どもを教会に迎い入れるには、大人の忍耐と余裕がなければ成り立ちません。小さな子どもと共に礼拝を守るためには、主イエスご自身が言われた「子どものように神の国を受け入れる」とは何かを大人がまず知ることが大事です。