礼拝

『赦してください』 マタイによる福音書 6章11-15節 牧師 武林真智子

主の祈りの後半部分には、私たちの日常生活の祈りが明らかにされていきます。ここで最初に注目すべきは、「私」の祈りではなく、「私たち」の祈りであることです。「私たち」と一緒に祈るとき、そこには神がお造りになったすべての「いのち」を覚えての祈りになることを意識していかなくてはならないのでしょう。

最初の祈りが「必要な糧」であることは、私たちが口にする糧の中に様々な人々の営みが包括されていることを思います。そして「必要な糧」を覚えて祈りを合わせるとき、そこには過去や未来ではなく現在の必要を考えることが求められます。出エジプトの民がマナを与えられたとき、明日を思って蓄えることができなかったように、私たちは世界中の今日かぎりの命に困窮している人々を思い、祈りを合わせたいものです。

「赦しました」と、言い切れない私たちがいます。だからこそ、このフレーズを祈るときの躊躇や戸惑いを感じつつ祈ることになります。まさにこの祈りは自分たちの過去に向かい合う祈りとなります。「負い目」と翻訳された言葉は、まさに負債を表す商業用語を語源とします。自分の努力や能力で手に入れたものという自覚から解き放たれない限り、神の途方もない愛と赦しに気づくことはできません。主イエスによって私たちは赦しあう関係性に招かれているのです。

この世に生きている限り、誘惑(試練)から逃れることはできません。まさにこの祈りは待ち受ける未来にむかっての祈りです。どんなに身体を鍛え、信仰心を強くしても悪の力は強力で、神と人、人と人との関係性を引き裂いていきます。だからこそ私たちは、すぐに欲望に従ってしまいがちな自分と隣人のために、誘惑(試練)に遭わせず、悪より救い出してくださるように神に祈るのです。

 

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