礼拝

ヨシュア記 24章14-15節 『主に仕えるとは』 牧師 武林真智子

 旧約聖書の中には、何度もイスラエルの民が主なる神によって導かれてきた道のりを、振り返って描く場面を見つけることができます。それは解放の歴史であると同時に、現在の悲惨な状況の原因を探るためであることがわかります。このヨシュア記24章においても、年老いたヨシュアが、すべての部族の代表を呼び寄せて、いままでのイスラエルの民族の歩みを語り、さらにこの約束の地に入ることができたこと、またそこで定住することができたことはすべて主なる神がしてくださったことであることを語ります。
 すなわち、人々が住んでいる土地は神が与えてくださった場所であり、自分たちの町と言いながら何一つ築いたのではないことを気づくように示していきます。そして今こそ、あなたがたは主を畏れ真心と真実をもって主に仕えなさい(24:14)と促していきます。
「主に仕える」、という言葉が何度も繰り返されていきます。「仕える」とは、相手を主人として働くことを意味します。しかし、約束の地も、またバビロンも、様々な神々がいて、自分たちの都合に合わせて選ぶことができる場所でした。しかし、主なる神とイスラエルの民との関係は横並びの神ではなく、唯一の神として仕えよと言われます。だからこそ、その他の神を取り除くことが求められるのです。
 この国に生きるとは、様々な神々に頭を下げ、自分に災いが及ばないように、御利益があるように祈る人々と暮らすということです。そのような中で、私たちは主イエス・キリストの生涯の中に、「主に仕える」ことの厳しさと喜びを見出していくことができるのです。

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