礼拝

ヨハネによる福音書 20章29-49節 『見ないで信じる人』 牧師 武林真智子

宣教題 見ないで信じる人

ヨハネによる福音書 20章29-49節

 トマスという弟子は、ヨハネによる福音書にのみ、その言葉が記されています。ディドモ(双子)と呼ばれるトマスという説明書きで紹介されています。最初に登場するのは、主イエスが愛するラザロの死を知り出かけようとする場面で「私たちも行って、一緒に死のう(11:16)」と、唐突に語る言葉が残されています。次は主イエスの告別説教の冒頭で主イエスの「あなたがたのために場所を用意しに行く」という言葉に「主よ。どこに行かれるのか、私たちには分かりません(14:5)」と食い下がる場面に登場してきます。

すなわち、思いついたら言葉にして、分からないものは聞いてみる、いう行動的な性格を持っていたようです。このトマスは、週の初めの日、弟子たちと一緒の場所にいなかったのでした。ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」というと「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と勢い強く言ってしまったのでした。

八日の後、すなわち次の週の初めの日、また弟子たちは集まって礼拝を捧げている中に、主イエスが真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのでした。驚いているトマスにむかい、穴のあいた手を広げ、傷ついた脇腹を示し、「信じない者ではなく信じる者になりなさい」と言われるのでした。「私の主、私の神よ」と信仰告白をするトマスへ「私を見たから信じたのか、見ないで信じる人は幸いである」と、優しい眼差しを注がれるのでした。

現代社会に生きる私たちは見えるもの、聞こえるものを事実として信頼するように育てられています。しかし、信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの(ヘブライ11:1であることを共に喜びあいたいと思うのです。

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