聖書は、「平和」とは、神と人、また人と人との関係性の中でしか生まれてこないことを示しています。しかし、私たちはどこか自分の領域や自分の感情が脅かされない状況を「平和」として捕らえてしまっている部分があるように思えます。
福音書の中で、ヨハネによる福音書は、キリスト者が最も迫害の中に置かれ、命の危険にさらされていた状況の中で記されたものです。特に14-16章は、主イエスの告別説教としての意味合いが強く、その言葉を聴いた弟子たち側も、この言葉は最後として聞かなくてはいけなかったという反省を込めて記されています。
この当時、ローマ帝国の皇帝は「平和を造る人」として崇められ、神の子とされていました。しかし、ここで主イエスが語られる「私の平和」は、この世で多くの人々が信じる神(皇帝)から受けるものとはまったく違ったものでした。力に対して力を持って征服し、従わせる方法で与えられるこの世の「平和」は、必ず次の力による「平和」を希求し暴力の連鎖を繋いでしまいます。
しかし主イエスが自ら弟子の足を洗うことで示す「平和」は、互いに愛し合うことから始まっていきます。すなわち、父なる神から贈られた主イエスの「平和の君(イザヤ9:6)」としての使命から「平和」が広がっていくのです。現代社会に生きる私たちが各地で行われている戦争や暴力に対して、向こう岸から批判していても何も変わりません。まず私たちが主イエスを信じ「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」と言われた言葉に促された行動をおこすことを考えたいと思います。「主の平和」はいまだ訪れていないのですから!