聖書には創造主なる神が私たちの命をお造りになって極めて良いと語られたことが記されています。さらに人間には、自由意志が与えられていて、神のロボットではないことも描かれています。聖書の語る「幸い」は、神との良好な関係性の中にしか見出せないことから、様々な場面で、神が人に求めておられる言葉を見つけることができます。
預言者ミカはイザヤと同年代、バビロンの捕囚期に登場してくる預言者です。本日の聖書箇所、ミカ書6章では、主は法廷にイスラエルの民を連れ出し告発していきます。「わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか(6:3)」と尋ね、預言者を遣わして出エジプトの出来事を起こし、さらに他の民族との争いを回避したことを思い出させるのです。しかし、イスラエルの民は全く聴く耳を持たず、律法にあるいけにえの多さを嘆くのでした。
そこで主なる神は明確に答えます。「人よ。何か善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている」そして「正義(ミシュパート)を行い、慈しみ(ヘセド)を愛し、へりくだって神と共に歩むこと」と、示していくのです。ここでも神と共に歩むことから外れてしまうと必然的に正義を失い、慈しみを忘れてしまうことが記されています。
私たちが主イエスの十字架と復活の出来事を通して、罪を赦されて救われたことを想いおこすなら、小さなことでも主が求めておられることを実行したいと願うのです。孤児、寡婦、寄留者に慈しみを注ぎ、正義を行われる神が、私たちと共に歩んでくださいます。その約束は変わりません。応答して生きる者とされていきたいものです。