この年になると「死」が身近なものとしていつも頭に浮かんできます。その瞬間は痛いのか、辛いのか、悲しいのか、ようやく天の国に入れるから嬉しいのか、きっと苦しみながら旅立つことでしょう。只一つ待ち遠しいのは、「イエス様の顔はどんな顔・・・」が見られることです。私のように罪深い者には天国から追い出されて入れないかもしれません。
モーゼはカナンの土地に入れなくて、モアブの土地で天に召されました。120年間生きたモーゼの命をなぜ神は奪われてしまったのでしょうか。
創世記 1:31:「見よ、それは極めて良かった。」
これにも拘わらず、申命記7:16、「諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐みをかけ てはならない。」と神は言います。旧約の「殺してはならない」(十戒:出エジプト記20:13)と矛盾しないでしょうか。普遍的な解釈をすれば、「(神に似せて創られた)人は神の愛に包まれている」と言えるでしょう。だから新約聖書では「自分を愛する如く、隣人を愛せよ。」と当時の共通言語、ギリシャ語では「愛(アガペ)」は「無償、無条件の愛」という訳です。
21世紀に生きる私たちには、イエス様に与えられた無償、無条件の愛・アガペーによって与えられた命こそ最も大切なものです。このアガペーの愛こそが全ての国民がお互いに分かち合ってこそ神の王国が実現するのではないでしょうか。そうすれば今行われている世界中の紛争、武力衝突などは無くなるでしょう。アガペーの実践こそが旧約・新約聖書の伝えたい本質ではないでしょうか。(664文字)