ヨシュア記は歴史書の中に分類されます。歴史とは後世の人々がその時代を振り返って記していくものです。ですから、その書をまとめていく人々の状況が大きく影響されていきます。バビロン捕囚の中で、神が約束してくださった「カナンの地」を失い、自分たちが捕囚として連れ出されたことを問いつつ記しています。
この書には、現在パレスチナと呼ばれている地域が描かれています。当時からそこには多様な民族が先住していました。その人々との争いや、交渉の中で、遊牧の民として幕屋生活をしてきたイスラエルの人々が、共に定住していった過程があったことを思います。しかし、聖書に記された民の様子は、神の命令に従って厳しく自分たちを律して、侵略へと歩み出したことが記されています。
後戻りすることのできない民の目の前には、春の収穫の時期で堤を超えんばかりに満ちていたヨルダン川が広がっていきます。そこで神の命令に従った時に、あの出エジプトの民が経験したと同じように驚くべき出来事が起されたと語り伝えられてきたのでした。自分たちの存在を「宝の民」と慈しんでくださった神に従うということは、どういうことだったのか?先達たちの歩みを振り返りつつ、現実の状況を痛み悲しんでいたのでしょう。
私たちの歩みも、何かを決断し、その先へと歩み出す日々です。目の前に広がる出来事の解決策を見出すことの難しさを何度も体験します。あの時、先だった主の契約の箱が川へと進み出していったからこそ、彼らは渇いた地を歩むことができたのでした。私たちの日常生活にも必ず主が先だった導きがあることを信頼する者でありたいのです。
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