教会とは、一人ひとりの違った個性をもった人間が組み合わされ、形作られる不思議な場所です。ときには、血縁関係を超えて、神の家族として、お互いを大切な存在として生きているのです。使徒パウロは、ローマの教会の人々の構成メンバーを思い浮かべながら、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(12:1)と、記します。
この時代、ユダヤの神殿だけでなく、異邦人の神殿であっても、礼拝には動物をいけにえを捧げることが大切な祭儀でした。すなわちレビ記に記されているように、時期、場所、方法が決められていて、それによって人間の罪や咎が許されると信じられていました。しかし、主イエスを信じるキリスト者は、特別の場所で祭儀を行うことで神を礼拝するのではなく、自らの身体をもって、日常生活の中で、神に喜ばれる生き方が求められているのです。
あなたがたはキリストの体であり、また一人一人は、その部分です(コリント12:27)と、すでにコリントの教会に送った言葉が繰り返されます。それぞれが日常生活の中で、神につながった生き方、聖霊の風を受けて呼吸することが求められます。そして、自分で頑張るではなく、神に委ねる生き方によって、どんなに外観や、考え方に相違があろうと、それぞれが部分として互いを認めあうことができるようになるのです。
教会には、様々な奉仕が与えられています。他者と比べるのではなく、強いられることもなく、自らを神に喜ばれる献げものとして生きていきたいものです。
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです(エフェソ2:10)
礼拝