私たちの日常生活の中で、「宝、富、お金」の話は様々な所で触れることが多いように思えます。自分の「宝」とは思えないものまで価値があると査定されたり、一方で仮想通貨という見えない財産によって企業が崩壊したりする事件にまで遭遇する時代です。この福音書が記された頃も、誰もが気がかりだったのは、地上の「宝」でした。特に主イエスの周りにいるほとんどの人々はその日暮らしで、「宝」の有無が生きることと直結していたわけです。だからこそ、地上における「宝」に振り回されないように言われるのです。
スチュワードシップ月間として、私の時間、私の自由、私の身体を、聖書から聴いてきました。しかし最も難題であるのが、私の宝(富)なのでしょう。全てのものは、神から与えられたと言いながら、自分の「宝」を失いたくないし、損をするのは避けたいと思う私たちがいます。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ(6:21)と言われた背景には、自分たちの立場に固執し、神殿を商売の場として賄賂を受け取っている人々を指していることも考えられます。
私たちは神と富に上手に兼ね仕えることができると思ってしまいます。しかし、私たちの欲望と思い煩いは底なしで、気づけば宝(富)に支配されてしまう危険の中にいることを自覚するように言われます。明日を主なる神に委ねて、今日の一日を精一杯生きることが求められます。この聖書箇所の次の部分には、思い煩いからの解放の道が示されています。礼拝の中で行われる献金とは、全ての「宝」は神から与えられたという信仰告白に繋がるものです。感謝と喜びを携えて、神が与えてくださった大きな愛への応答として献げるものでありたいと思うのです。