コリントの教会は、様々な問題を抱えていました。交通の要所として、異民族、異文化が流れ込み、それが教会にも及んでいたのでした。それゆえ教会の指導者たちは、使徒パウロにむかって、度々手紙を送って質問をしていたようです。それに応答するように使徒パウロは、この世においてキリスト者としての生き方、考え方を記していったのです。
「わたしには、すべてのことが許されている。」と、「しかし」が重ねられています。この背景には何を食べるのか、食べてはいけないのか、で論争になっていたことが考えられます。さらに性的な秩序についても、何事にも支配されないということと、与えられた体をどのように用いていくのかが、人によって意見が違っていたようです。
現代社会に生きる教会も、ますます人権意識や多様性を配慮していくことが求められます。しかし、自分の考え方や生き方を他者に押し付けたり、逆にまったく関係性を閉ざそうとしたり、より良い関係性を見つけるのに苦慮することも事実です。人を傷つけたくないし、ましてや傷つけられることからは距離を置きたいと思ってしまいます。
ところが、使徒パウロは強い口調で記します。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だと知らないのか」ここでもまた神と人との関係性が揺さぶられることで、罪によって人と人との関係性がうまくいかなくなってしまうことを明らかにしていきます。キリストの十字架と復活の出来事を通して、罪に死んだ体は、もはや私たちのものではなく、罪の奴隷から解放された体なのです。使徒パウロは、「代価を払って買い取られた」と表現し、私たちの体は聖霊の宿る神殿なのだから、神の栄光を現わしなさいと勧めるのです。