主イエスが十字架につけられ、葬られた墓が空であったことまでの話は、そのほとんどが女性たちの証であっただろうと言われています。男の弟子たちは、身の危険を感じ、主イエスを見捨てて逃げてしまったと聖書は記します。ガリラヤから旅をしてきた一行の中に、確実に多くの女性たちがいたことは、複数の福音書に記されています。彼女たちの多くは、様々な背景で家父長制度からはじき出された境遇にいたことが想定されます。
数にも入れられない女たちは、ガリラヤからの旅に同行していても記録には残されない存在でした。しかし、彼女たちが仕えていたからこそ、日々の生活が成り立っていたはずです。旅の途中で主イエスが、何度も殺されると語られた言葉が、心に刺さったままであったことでしょう。目の前で主イエスが捕らえられ、まともな裁判もされぬままに十字架へと引き渡されることに抵抗もできずに、ひたすら見守るしかなかったのです。
あたりは暗くなり、見上げるほどに高くつるされた十字架の上から声が響きます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)。肉体は痛み、体の重みで気を失うほどの中で、神を呼ぶ主イエスの悲鳴でした。「他人は救っても、自分は救えない」人間イエスの最後の叫びが届きます。
ゲッセマネから片時も離れず罪人のボディーガードとして働いた百人隊長は、この最後の場面で、苦しみ痛みの只中でもなお、神を徹底的に信頼する主イエスを正面から見守っています。 そして「この人は神の子だった」と、告白したその人が異邦人であったことを、著者マルコは神の新しい展開として描いていくのです。