聖書は、神が私たち人間を土の塵で形づくり、命の息を吹き入れられたもの(創世記2:7)と表現します。また陶工が粘土で器を作るように(エレミヤ18:4)神の意志で壊され、作り直される存在であることを示します。しかし私たちは、自分の判断で決定していくことが多くなってくると、神の御手を忘れて存在より、見栄えの方が大事になってくるように思えます。
人間としてこの世に遣わされた主イエスは、神の御手にある存在を感謝し、まよいつつも神に信頼して生きる模範を示してくださいました。ですから、主イエスに従って生きることは喜びであり、復活の命に預かる道を歩むことになります。しかし、この国でキリスト者として生きるには、それなりの覚悟も必要なのかもしれません。この手紙が記された時代のコリントの教会はもっと深刻な状況でした。すなわち、ナザレ人イエスを信じて生きることは、どこか命がけであり、死をまとうことであったようです。
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません(4:9)
そんな状況であっても、希望を持って生きていけるのは、福音という素晴らしい宝が土の器である私たちの中に納められているといいます。その器は見栄え重視どころか、欠陥商品のようにひび割れ、水を入れれば漏れ出てしまいそうなものが良いというのです。そこに納められた宝が外からも見えるような器こそが、神の喜ばれる存在であるというのです。
私たちは、自分が不完全で足りない部分を抱えていることを知っています。その不十分さ、不完全さをこよなく愛してくださる主に委ねる生き方こそがキリストの体としての土台になるのでしょう。