召天者記念礼拝に考えていきたいことは、それぞれの命の出来事を神様は知っていてくださるということです。私たちにとって、時間が経つとその人との大切な思い出が、より鮮やかになってくることもあります。しかし、この礼拝は故人を忍ぶということより、私たちが神様の計画の中で、その人と出合い、共に時間を過ごすことができたことを想起し、神に感謝することにあります。教会はなにより神を礼拝するところです。だからこそ、私たちの関係性を神が与えてくださったことが大事になってくるのです。
召された人の生涯を思う時、私たちは自らの命(いのち)を考えます。このハバクク書は、捕囚としてバビロンに連れていかれ、エルサレムは崩壊してしまう激動の時代に書かれたものです。著者は、絶えず死を意識しています。しかし、注目すべきことは、どんな状況であっても預言者は嘆きつつも、その終わりがあることを知っているのです。「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか(1:2)」「律法は無力となり正義はいつまでも示されない(1:4)」この預言者は、民に語るのではなく、神に対峙しつつ嘆いているのです。そして確かにその嘆きにむかって主からの答えがあるということです。
コロナ感染の波が収まったと安心すると、今度は毎日のように暴力や紛争の話題が聞こえてくる状況に取り囲まれています。嘆く人々の叫びが聞こえてきます。その中で、私たちはどんな思いで生きるのかを考えます。「神に従う人は信仰に生きる(2:4)」こそが、ハバククが示した主にあって喜び、救いを喜ぶ者への道でした。教会の歴史の中で歩まれた一人ひとりが、主に信頼し、主に従う道を選ばれたことを共に喜びあいたいのです。
礼拝