礼拝

『神を示された方』 箴言8章22〜31節  牧師 武林 真智子

 箴言には「知恵の勧め」と題された箇所が3か所あり、8章から9章6節までが、その最終回となります。ここには家長が若い息子に諭すように呼び掛けている言葉が連ねられています。私たちが慣れ親しんでいる格言と、どこか似た響きを感じる箇所です。また、ここで取り上げられる「わたし」は知恵(8:12)を指しています。
 本日取り上げた箇所は、神が天地万物を創造された場面を描いています。イスラエルを取り囲むバビロニア、エジプトにも創造物語は存在しますが、自分たちが「主」と呼ぶ神が深淵の存在しない中から「わたし」をお造りになった始まりに注目して描いています。創世記、詩編などにも、似たような表現が記されていて、この民が手渡していった創造物語として、また自分たちの悔い改めとして描いた部分と言えるでしょう。
 キリスト者が聖書の言葉を受け取る場合、それを神からの救いの「証言」とし、特に旧約聖書においては、そこにイエス・キリストの到来を約束した言葉を捜します。すると、この初めに造られた「知恵」という存在を、イエス・キリストを指し示す読み方となり、ヨハネの福音書1章に繋がるものとしての受け止め方が見えてきます。
 イエス・キリストを自らの救い主として信じる者にとって、旧約聖書の中に主イエスを見つけることは喜びです。神の愛を具体的に私たちに現わしてくださった方によって、私たちは神を遠いものとして主を畏れるだけでなく、近いものとして自分たちの痛みや苦しみを注ぎだしてみ前に祈ることができるのです。いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(ヨハネ1:18)

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