礼拝

『私の闇を照らす神』 サムエル記下 22章17〜31節  牧師 武林真智子

 詩編に編集されている歌の殆どは、ダビデの歌と言われます。たて琴の名手であり、気鬱の病に侵されたサウルは、ダビデの琴によって安息を得た(サムエル記上16:23)と、記されています。本日のサムエル記下22章は、詩編18編と同じもので、ダビデの感謝の歌と記されています。
 波乱万丈の人生を送ったダビデは、自分の生涯を振り返ったとき、そこに確かに主なる神がおられ、窮地の中でも救いの手が与えられ、生きるものとされたことを歌います。同じように私たちの日々の生活の中で、どうにもならないほどの状況であっても、主なる神が共にいて救い出してくださった経験をします。その経験をどのようにとらえるかが問題なのです。
 自分が神の掟を守り、正しく生きてくることができたから、神が助けてくださったと思うのか?あるいは神の守りと備えの中で、罪深い者が、崖っぷちの道を落ちないで生きてこられたと思うのか?信仰には二種類の生き方があるように思えます。すなわち正しさ(義)へのアプローチの違いともいえるでしょう。
 信仰生活が長くなると、信仰していることだけで、正しさ(義)が与えられていることに発見や喜びを感じにくくなってしまうことがあります。本来は、一日の目覚めから神の恵みと慈しみの中によって整えられたものであり、そこには感謝以外には何も必要のないはずです。自分の持っている「罪」は消し難く、それを自覚すれば、決して正しさを主張することはなく、謙虚に生かされている喜びを感謝の歌としたいものです。

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