礼拝

『戦いの結末』 サムエル記下18章19節〜19章1節

 続けてサムエル記を読み進めると、戦いの話ばかりと感じます。そして、現代社会においても戦いの話ばかりが私たちを覆っています。誰もが戦いがあれば、人が殺されることを知っています。誰もが戦いではなく平和を望んでいます。それでも、繰り返し繰り返し、国は国に向かって剣を挙げて、人が殺されていきます。平和にために私たちがなすべきことは何なのでしょう。
 自分たちがどんなにしても勝利はありえないと知っていても、人は戦いを初めてしまうことを学習しました。いったん初めてしまったら、納得できる終わり方がないことも知っています。結局のところ、自分たちで終わろうとするのではなく、間に入った別の国からの勧めで、ようやく終わりになっていった歴史を思い返しています。
 ダビデ王は、ナタンの言葉で、自分の罪に気づき、いままでとは違った言葉を持つ人へと変えられていきました。彼は戦いに勝利したことと、敵である息子が、殺されたことの矛盾の中で、悲しみを皆の前で声に出してしまいました。それは王がしてはいけないことであったし、王の名のもとで、命がけで戦った人々には極めて失礼なことでした。戦いの結末はいつも悲劇なのです。
 聖書は神に信頼を置かずに自分たちで戦いを起こしたことへの悔い改めと嘆きが証されています。旧約聖書の物語を受け止めるとき、主人公が誰であるかによって様変わりすることを見ることができます。ダビデに勝利を伝えた二人の知らせ方の違いにも、人の忖度や悲しみを知ります。

TOP