見渡す限り茶色の世界が続くパレスチナの地域に住む人々にとって、緑の木々が育ち、実をつけることは、命をつなぐことでした。詩編1編は、150編の詩編の序として、「幸い」に注目します。この詩編にとって、「幸い」とは神との交わりに生きることです。
新共同訳では、正しい人を「神に従う人」とし、悪い人を「神に逆らう人」と翻訳しました。そこには翻訳者の信仰告白が込められており、人の生き方は神との関係性によって左右されるとしたのです。その中で、正しい人は、悪の中を歩まず、罪の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らないと宣言します。
出エジプトの民は、シナイ山で主から戒めと掟を受け、それを守り、忠実に行うことで幸いを得ることができると教えられました(申命記6章)。この主の教え(トーラー)を愛し、昼も夜も口ずさむ人こそ「幸い」であると示します。詩編(テヒリィーム)とは、原語では「賛美の歌」となります。すなわち、メロディがつけられて、読み書きが不十分なものでも、口ずさむことで、主の教えと共に生きることができると言うのです。まさにその人こそ、主なる神が見つけ出し、流れのほとりに植えられ、「幸い」に生きることができるとします。
一方、神に逆らう人は、植えられる場所がなく、もみ殻のように風に吹き飛ばされていくとします。神の裁きに堪えず、正しい人々の集には堪ええず、滅びに至るとするのでした。詩編は、神に従う、従わないと二分した表現をもって、何を示したかったのでしょうか。私たちは、自分の中にも、曖昧な状況を見出すはずです。山上の説教の中で、主イエスが示す「幸い」は、繁栄とは縁遠く、貧しく、悲しむ人こそ「幸い」と示しました。
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