聖書の中には、「平和(シャローム)」という言葉を、いたるところに見つけ出すことができます。それほどまでに私たちは、神の公正と正義をはき違えて、間違った「平和」を追い求め続けていることが背景にあるのだと思われます。「平和」とは、私たちが考える戦争がなくて、人間的に落ち着いて満足している状況ではありません。また誰かや、何かの犠牲の上に築かれる安全と幸福でもありえないのです。もっと動的なもので、神の意志に巻き込まれて、日々新たにされることを指します。
この時代、人間が立てた制度に服従するしか生きる道がないと考えられた中での手紙です。ですから主人と召使、あるいは妻と夫という圧倒的に立場が違い抵抗することができない中でも、神の御心に適うこととして従って生きることが勧められていきます。それはあきらめるのではなく、神に与えられた希望に生きることが、徹底的に主なる神に委ねた主イエスに従うことになるというのです。
敵意に満ちた中で、違いを超えて互いを認め合い、尊厳のある人として向かい合うしか平和への道はありません。武器や力を積み上げても一時しのぎの状況を作るだけで、本当の平和には届くことのない道です。それは誰かが実現してくれるものではなく、主イエスの十字架と復活を通して救われた私たち一人ひとりに委ねられたものでもあるのです。
すべての命が尊ばれることこそが神のみ旨です。だからこそ、著者は共同体が口ずさむ詩編を引用して「主を畏れる」ことこそが、報復の連鎖を断ち切って、主イエスがされたように非暴力の生き方を貫くことができると示します。そして、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるのではなく祝福の祈りを届けていこうと呼びかけていくのです。
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