戦いに勝利し、兵士たち従えて帰還するサウル王を、イスラエルの女たちは喜びの声をあげて迎えます。(18:6,7)彼女たちは、太鼓、絃をもって「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌い交わしたのでした。それは慣用表現として「サウルとダビデが大勢の敵を打ち倒した」と歌っただけでした。
しかし、その言葉がサウルを激怒させ、ねたみの目でダビデを見るようになった。と、聖書は記します。現代社会に生きる私たちも、サウル王の猜疑心と同じような誘惑にさらされる経験をします。何をやっても成功する人をうらやみ、時として貶めようとする思いや行動にむかいそうになります。そこには人と人を分断しようとする悪霊の働きが見え隠れします。
サウル王の思いはエスカレートして、多くの兵士を巻き込んでダビデの命を取ろうと画策していきます。その分断をさらにあおるように、様々な告げ口する人々を聖書は描きます。私たちは、そこに繰り返されるペリシテ人との戦争が背景にあることを受け止め、昨今の各地で繰り広げられている戦地で同じように、人を疑い、人を貶めても生き残ろうとする人々がいることを忘れてはいけないのだろうと思うのです。
洞窟の中で、ダビデは無防備なサウル王に遭遇し、ひそかに上着の端を切り取ります。また、その兵たちには、「主が油を注がれた方」への殺害を押しとどめていきます。このようなダビデの行動をどのように受け止めたら良いのでしょうか?同じような物語が26章にも描かれています。どの物語もサウル王は「わが子ダビデ」と、声をあげて泣き、ダビデの正しさを受け入れ、次のイスラエルの王となることを示していきます。しかし、この二人には真の和解は起きていないことを聖書は記すのです。