礼拝

『命と平和』  ローマ信徒への手紙8章6〜8節 牧師 武林 真智子

私たちは、沖縄のことを覚えて毎年「命(ぬち)どぅ宝の日(6月23日)」礼拝を行っています。「命どぅ宝」とは、沖縄の言葉で、「命こそ宝」という意味を持ちます。沖縄には先の戦争で唯一の地上戦によって多くの民間人が殺害されました。その後、米国の支配を経て、全国土0.6%しかない沖縄に、74%の米軍基地が存在し、返還どころかさらに次の基地建設が進んでいます。

戦争で家族を失った人々が二度と戦争で命が失われないように、辺野古の基地建設予定地前で座り込みをし、嘉手納基地の前で毎週基地反対のゴスペル集会を開いています。しかし、誰一人命が失われてはならないという思いを踏みにじるように性犯罪は後を絶ちません。基地は戦争の道具であり、今もイラクに向けて沖縄の基地から戦闘機が飛び立っています。

平和の対極は無関心です。この国の歪みが露呈している沖縄に関心を寄せ、一緒に考えることこそが求められているのではないでしょうか? 為政者たちは、本土の国民が知らないように巧妙に働きかけ、報道が止められています。平和学習を中立ではないと断罪し、その思いや痛みには触れないように誘導していきます。保育園に戦闘機の部品が落下しても自作自演と揶揄し、性犯罪も被害にあった側が避難されるように仕向けてきます。

そのような中で、私たちは肉の思いで生きるのか、あるいは傷んだ人々と連帯して霊の思いでいきるのかが問われてきます。女性連合は毎年沖縄で学習ツアーを実施し、知ること、共有すること、そして共に祈ることをアピールとして沖縄の痛みに連帯しています。主イエスの愛と平和に従って生きるとは、誰も犠牲になることなく「命どぅ宝」と喜べる世にむかって共に歩みだすことです。無関心のままではいられないということです。

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